【香雪蘭(コウセツラン)紫】


カツ
カツ


黒板に先生が白いチョークで文字を書いている。
コトンとチョークを置くと、教壇に立ちクラスの生徒を見回した。
そして、ゆっくりと口を開く。
「はい。ではー、宿題です。『あなたの尊敬するひと』を、理由をつけて原稿用紙に書いてくること!」
え――――・・・
めんどくさそうな顔・顔・顔。
「先生〜、小学生みたいな宿題〜。」
巻がだるそうに言うと、そうだそうだと抗議の嵐が起こってきた。
「そんなこと言うんじゃない。小学生にも出来る宿題だろう?それに加えて、作文と論文の勉強にもなるんだから、ちゃんとした理由付けをして書いてこいよ。」
さらりと流す先生は、こういった文句も抗議もブーイングも経験しているのだろう。そ知らぬ顔で原稿用紙を配りだす。
「だれでもいいんだぞ?俺なんか、織田信長!って昔は書いたものだった。お父さんでもお母さんでも先生でも!友達でも校長先生だって良い。夏目漱石だって、あそこのお店の店長ってのもありだな。憧れの人を思い浮かべろ。」
その先生の言葉に女子たちがきゃあと喚く。憧れの人だって〜。先生やらし〜。中学生の揶揄に先生は苦笑した。
「理由を書けるのか?ちゃんと作文にして書くんだぞ?」
注釈を加える。そりゃあ恋愛の理由を書くだなんて、よほど肝の据わった中学生しかできないであろうから、それはそれで書いてくれば面白いと、またも響くブーイングにはいはいと先生は頷いていた。


リクオは『憧れの人』と聞いて、ふと銀色の髪が鼻先をくすぐった気がした。
さらさらとなびく銀色の艶やかな髪。
狂い咲きの枝垂れ桜の木の枝で、盃を傾けている彼。
すらりとした長身で、体格も大人の男の人で、肌は透けるように白くて、指は細く長く、その唇は…
そこまで思いが至った途端、頬に熱があがるのを感じた。
―僕は!何を考えてるんだ…!
頭を抱えるも、想像したものは消えず、ぐるぐると頭を巡る。
憧れ…
おじいちゃんを憧れていた時があった。勿論今も総大将として凄いと思っている。でも、何故だか凄すぎて遠い気がする。
それよりも、夜の僕は僕に近くて、手が届きそうで、届かない。僕が欲しいものを、なりたいものを持っている、存在。
羨ましくて、憧れて、手を伸ばすけれど、少し遠くて…


学校から帰って自室に篭ると、リクオは、はぁ…とひとつため息をついた。
もらった原稿用紙を睨みつけ、どうしよう…と悩みだす。
あれからずっと頭を支配する銀色の髪の彼。それ以外に思いつかない。
『憧れの人』
もう!頭から離れろ!とばかり本棚から歴史の本を取り出すと、史上の人物を探し出した。
しばらくして誘われるようにうとうとと頭を揺らすリクオ。
コトンと頭を本に落とし、闇に落ちていった…







―ここは夢(ゆめ)と現(うつつ)の狭間の世界
リクオの中にある世界。狂い咲きの枝垂れ桜の木と自室しかないその空間は桜の花びらが常に舞い散り地に着く前に消えていく。
昼のリクオと夜のリクオが対面する唯一の世界。
夜のリクオを認めた時から、少しずつこの空間で二人は会話をするようになったのだ。
たまに夜のリクオが桜の木から降りてきて、からかうように、昼のリクオを触ってくる。
鼻をつまみ、頬をつねり、髪を弄び、指を絡め、唇を攫う。
翻弄されるその行為に、なんなんだと頭を悩ませていた昼のリクオだったが、ただ彼の触る場所場所が熱いのは確かなのだ。
目を奪われるその存在を、憧れ、羨ましげに見つめる。


「ねえ、夜の僕…ちょっと、居づらいんだけど…」
今日も今日とて、何故か夜のリクオに抱き込まれている昼のリクオ。
縁側で、居心地悪そうにしている昼のリクオは、その身を包み込む逞しい腕を見て、いいなぁと呟いた。
「なんでぇ?なにが『いいなぁ』なんだ?」
肩越しに顎を乗せられて、耳元で囁かれれば、背筋が震える感覚がした。
「なんでも…!それより離してよ!」
「なんでも無いって顔じゃあねえぞ?」
抱き込んでいる腕の力が弱くなったと思えば、肩を掴まれ、後ろに倒され、何故か背中から地に落ちる。
―あれ?桜と夜の僕…
いつの間にか、縁側の板が背中につき、昼のリクオは仰向けになっていて、視界の先には口の端を上げた夜のリクオとその先の桜の木。
銀色と薄紅色がキラキラと輝いている。
「綺麗だなぁ。」
思わず口に出る言葉に、昼のリクオ自身が驚いてしまった。
にぃと笑う夜のリクオは、
「綺麗ってのは、俺か?桜か?」
意地悪そうに聞いてくる。
恥ずかしくて顔を赤らめる昼のリクオだが、やはり目の前の綺麗な人が羨ましくて、憧れて、なんとなく、手を伸ばした。
その手を夜のリクオは掴む。何も言わず掴んだ手に口付けた。そしてまた、
「なにが、『いいなぁ』なんだ?」
と今度は優しげに尋ねてきた。
「…今日、学校で、尊敬する人を書きなさいって宿題が出たんだ。」
「うん?」
夜のリクオは首を傾げる。
「それでね、先生が、『憧れの人を書けば良い』って言ったんだよ。」
「へぇ…」
とつとつと語る昼のリクオ。
「僕の、憧れの人は、君なんだ…ってなんていうか、再認識したっていうか…」
言ったは良いが、照れて頬を染める。
「そうか、それで、か。」
「その腕だって身体だって、僕よりも数段大きくて逞しくて、顔だって髪だって、綺麗で艶やかでみんなを魅了する。居るだけで、全ての者を惹きつける存在…届きそうで届かないのに、つい、手を伸ばしてしまうんだ。」
掴まれている手をくっと曲げ夜リクオの手に触れる。
夜のリクオは昼のリクオの指に指を絡ませ、指に口付けると、そのまま身体を倒して昼のリクオの顔すれすれにまで近付いた。
目を瞬かせる昼のリクオ。
「俺も、お前に憧れる。」
柔らかな髪と瞳の色に、愛らしい顔立ち。光り輝く世界にありながら人間にも妖怪にも愛され慈しまれる存在。俺をも惹きつけ、無自覚に翻弄する。そして俺に憧れると言い、細く小さな手を伸ばしてくる。
想いは違うとわかっていて、なお、この手を掴みたい。思い焦がれる…憧れ。
「僕に?憧れるの?君が?」
ぱちぱちと瞬かせるその琥珀色の瞳は驚きの色を表していた。
少しの間があり、昼のリクオは少しずつ口元を緩め始め、照れたような嬉しそうな顔をして
「なんだ、じゃあ、お互いに、思っていたんだね。」
ボソッと呟いた。
―俺は想っている…
心で呟く夜のリクオは、顔をゆるりと近付け、そっと薄紅色の唇に触れた。






別名:フリージア(紫色)《花言葉:憧れ》